4回も練習したのに
第一回は待降節第一主日の28日で今日で4回目。「少し慣れてきましたね」という信者の感想とは裏腹に、典礼書から目が離せないのは司祭のボク。というのも、これまで50年も唱えていた第二奉献文は典礼書を見る必要がないので、つい、古い方が口に出てしまう。初日はさんざんだった。
その点、信者は楽?すぐになれたようだが、司式する側としては気が抜けない。開祭の儀に始まって閉会に至るまで本文とにらめっこ。それでも、ちゃんと順番を踏んでいるのか油断できない。信者たちがスムーズに応答していることで、先に進むありさま。それはそうと、典礼書に沿うことで安心感があることにも気がついた。
というのは、たまにだが、集中力が切れて急ブレーキがかかって進めなくなり、慌てて典礼書をめくることがあるからだ。典礼書に目をやるのは祈りではなく、「読んでいることになるのでいかがなものか」と敢えて見ないで唱えていたのだ。しかし、丁寧に読めば、それなりに落ち着いて祈れる感じがした今朝のミサは新鮮だった。
今後は、好むと好まざるとに関わらず、典礼書に沿って捧げようと思った次第だ。新司祭のつもりで。それにしても、祈願文のない不完全版しか出せない日本教会の現実は容認するとしても悔しい思いはある。
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