1891年12月31日と言えば
鹿児島教区の人なら誰もが知る?フェリエ神父様来島の記念すべき日。七島灘の荒波を超えて来島された神父様がいち早く目を止められたのが名瀬の玄関口ともいえる当時カツオ漁で栄えた大熊。
宣教開始翌年の1893年には司祭館付きの教会建築が始まったところからしても大熊の人々の進取の気性躍如たるものがある。名瀬ではまだ個人宅を仮聖堂にしていたというのに。
信仰の質も日に日に深まり、青伝熊氏は長崎五島の伝道学校に送られ、奄美初のカテキスタとして活躍された。
カツオのぼりの日はオープン
漁港の近くに上がるカツオのぼり。枕崎でも見たのと同じものだ。「漁業の町らしくていいね。」しかし、単なる町の象徴ではなくて、「今日は刺身があります」という意味だと知って好奇心をそそられた。
いつもはダイワで済ましていたが、ある時入ってみることに。小と大とあるので、小を手に取って窓口に行った。「ハイ500円。」早速夕食に開けてみた。厚切りの刺身がたっぷり。1人ではとても食べきれる量ではなかった。
進取の気性その2
実はこの魚屋、どうやら「宝勢丸組合」経営らしい。手元の大熊誌によると約100年前の大正11年(1922年)にできた組合だという。宝勢丸が出漁したときはのぼりが上がり、不漁の時は上がらない。
進取の気性と言えばもう一つある。
直 川智(すなおかわち)と言えば
奄美糖業の創始者。大和村戸円で、中国から持ち帰ったサトウキビの栽培に成功し製糖を開始したのが1610年。その3年後には大熊に導入され、たちまち30か所にも及ぶ製糖小屋が軒を連ねたという。今ではその痕跡すら目にすることはできないが。
紬のことなどまだあるとは思うが、長くなるのでこれぐらいにしたい。いずれにしても、”一致団結の大熊”がすべての成功のもとらしいことが大熊誌からうかがわれた。
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