今日は日本二十六聖人の祝日。「群衆の中のキリスト者の一人が彼に向かって『君は間もなく楽園に入るよ』と叫ぶと、ルドビコは腕と体全体に喜びをみなぎらせ」(毎日の読書192頁)たという。「それから、4人の刑吏は槍の鞘を外し、…非常にすばやく、一突きか二突きで…一人一人を殺害した」(同193頁)。12歳のルドビコはまだ子供。小さな胸を突いた鋭い槍。想像するだに身がちじむ。国家権力による不条理の死は主の十字架上の死そのもの。
不条理と言えば、あのヨーロッパに押し寄せるおびただしい数の人々、そして遭難して亡くなる子供たち。争いによる不条理の死を強いられている点ではルドビコと同じ殉教者といえる。見かねた世界の為政者たちが、さすがに援助の手を伸べ始めた。周辺国が疲弊することは国を追われた人々を路頭に迷わせることになるわけでいわば当然。日本も400億ドル(?)だか拠出するという。こうした国際的な動きが本当の和平につながればいいと思う。
ところで、今日の福音は弟子たちの宣教への派遣。「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」(マタイ28.20)が結び。もはや宣教師を派遣することができなくなったヨーロッパの教会と人々は、この現実をどんなふうに理解しているのだろうと思う。同じ神さまを信じながらもキリストを知らない人々を兄弟として受け入れてほしいと思う。それができるためにも世界中が経済的に受け入れ国を積極的に支援することには意味がある。
そして、逃れてきた人々が人間らしい生活を保障されるためにも各国に頑張ってほしいと思う。更に、そんな動きが、人種宗教国境を越えて一つの星に住んでいるというたった一つの条件のもとに新しい形の地球家族の始まりになるのだとすれば、弟子たちを派遣された主の思いは、図らずも実現することになる。宣教師は派遣できなくなったとしても、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と保証された主の思いを伝えることにならないか。
小聖堂でのもう”一つの孤食”の前後にそんな思いを巡らしていた。明日を夢見ることもできないまま海にのまれたあのいたいけない幼子たちとルドビコ。再び言い知れぬ痛みともどかしさ。すると、突然、昨晩の魚さばきが蘇った。毎日のように釣りに挑戦しているビアンネ神学生がついに立派なカワハギと小さなタイをものにした。ヒレをプルプル振るわせたり体をくねらせたりと元気なカワハギにベテラン釣り師の先輩司祭が包丁を入れた。見守る一人が、思わず「イタイッ!」と叫んで周りを沸かせた。
ともあれ、日本語勉強中のビアンネには釣り仲間もできたようで、ここでも始まった地球家族への小さな始まりに乾杯。
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