古代の洞察
詩篇8番4節「あなたの天を、あなたの指の業を私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配慮なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何者なのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。…。」
創世記2章の洞察
1)従来、三つの調和として紹介してきたところで、僕の場合、人と神、人と自然、そして人と人の調和が壊されていくところから救いの歴史が始まるという一本調子の展開だった。だが、今回の司祭は、さらに深めてくれた。
2)「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹きいれられた。人はこうして生きるものとなった」 (7節)。単なる土の器が神に息吹かれ、神の命を共有しながら生きるものとなった。つまり人とは、神との出会いを生きることができる霊
的存在。十字架の聖ヨハネは、さらに踏み込んで、「どんな人の中にも神がいる」と断言する。それなしには、「霊魂は存続することさえできない」とも。
気が楽になった
洗礼を受けたもののいつの間にか姿が見えなくなった信者、信者のひんしゅくを買う司祭などなど悩みの種は尽きない。しかし、そうした信者や司祭の中から神様は逃げ出したりしない。なんとか、まともな道に立ち返るように、輝く信者や司祭となるように誰よりも熱く思いを込めていてくださる。命の息を吹き込まれた、ということがそう言う意味であるなら、もっと長い目で見ていけるような気がする。
側面性とペルソナ性
ちなみに、「人から抜き取ったあばら骨でで女を造り上げられた」(22節)というときのあばら骨はもともと「側面」という意味だという。人は単独では存在し得ない。この人の側面性と共に人のペルソナ性(響き合う存在という意味の個人的造語)には思わず顔を上げた。これは、もう殆ど、MEの世界ではないか。我思うゆえに我あり(ME参加前)から「我々(夫婦)思うゆえに我々あり」への大転換こそ、聖書の人間観をじで行くもの。我田引水過ぎたかな。
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