教皇初ミサ
29日のヤンゴンでの初の教皇ミサの説教を紹介したい。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私はこの時を大変心待ちにしていました。
皆さんの多くは遠くの山岳地帯から、ある人は徒歩で来られました。私は、同じ巡礼者として皆さん聞き来学ぶためにやって来ました。もちろん、希望と慰めの言葉をかけるためでもあることは言うまでもありません。
今日の第一朗読のダニエル書は、ベルシャザル王と占い師たちの知恵がいかに浅いものであるかを教えてくれます。彼らは、金や銀、銅や鉄、それに木でできた神々を称えることは知っていても(ダニエル5,4)私たちの命と息を手にしておられる神様を称える知恵は持ち合わせてはいませんでした。一方、ダニエルは、主からの知恵を持っていたのでその偉大な神秘を説くことができました。
神さまの神秘を説く唯一のお方はイエス様であり、人となられた神の知恵なのです。イエス様は、長い話や政治的この世的な力を誇示することで神の知恵を教えることはりませんでした。むしろ、十字架でご自分の命を捧げることで教えてくださいました。私たちは、時々、自分の自信の知恵を過信する罠に落ちてしまってどこに行けばいいか分からなくなってしまうことがあります。そんな時に、私たちは十字架にかけられた主の中にこそ確かな羅針盤があることを思い起こす必要があります。神さまからの光によって私たちの人生を導くことができる知恵を十字架の中にこそ見つけることができます。
そして、十字架からは癒しも来ます。イエス様は、その傷を私たちのために御父にお捧げになられたので私たちはその傷によって癒されるのです(1ペトロ2,24)。ですから、いつでも、すべての癒しの源であるキリストの傷の中に知恵を見出すことができますように!ミャンマーでは沢山の皆さんが目に見える形にしろそうでないにしろ暴力による傷を受けていることを知っています。こうした痛手に対して、第一朗読の王のように、この世の知恵で答えようとするのは誘惑です。怒りと復習で癒されると思いがちですが、それはイエス様のやり方ではありません。
イエス様のなさり方はそれとは全く違います。憎しみや拒絶がイエス様を受難と死に至らしめた時、イエス様は赦しと同情で答えられました。今日の福音によると、主は、私たちも同じように拒絶され、つまずきに会っても、対抗もできない知恵を与えて下さると言われます(ルカ21,15)。神の愛が私たちの心に注がれることになる聖霊について話しておられるのです(ロマ5,5)。イエス様は、聖霊のたまものによって私たち一人一人を、この世の知恵に勝利する知恵とどんな深い傷でも和らげることのできる慈しみのしるしにすることがおできになります。
(以上、半分だけだが今日配信のUcaNewsよりの試訳)
教皇は、外交辞令の言葉ではなく、信者たちを前にしてやっと霊的父親としての言葉をかけることができたことを喜ばれたに違いない。ミャンマーの人々もどんなに嬉しかったことか。きっと勇気が湧いたことと思う。
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