16日はそれなりに意義深い一日だったが、17日の記念ミサにしくものではない。教皇特使と地元の大司教ほか全司教、そして数十名の司祭団による荘厳さにおいて、という意味ではなく、いうまでもなく、ミサは、キリストの祈り、いけにえであるがゆえに何ものにも代えがたい価値において。
そういう理屈はともかく、荘厳さもさることながら、入祭直後に祭壇前で演じられた信徒発見の場面。プチジャン師役の司祭のまえに和服姿の信徒たちがやってきて神父様と問答する。サンタマリアのご像をみて感激するさまを聖歌隊が歌い上げる。入祭にふさわしいにくいほどの演出。感動した!
250余年もの間息をひそめて待ち続けた司祭と出会い、公然と信仰を告白できた喜びはいかばかりだったか。
翻って、今のこの神なき文化にからめ捕られ、この世に埋没したかに見える多くの洗礼だけの信者たち。ご多分に漏れず、我が愛する甥や姪たちもいい子たちばかりだが壊滅的。
そんな思いで捧げた今朝のミサ。福音の一節に、前後の脈絡なしに、ひたすら「お願いします!」の合掌礼拝。「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである」(ヨハネ5.23)。現代の隠れキリシタンたちが公然と信仰告白をする日はまさに神のみぞ知る、だ。
そういう意味において、信徒発見250周年の記念は、きわめて現代的意義を持つものだったと改めて実感。
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