94歳の大先輩から髪黒黒のフレッシュ司祭まで老いも若きも一堂に

アドゥスムを生きる

永井博士のお墓教区司祭の霊性を求めて。テーマの重たさに我ながら疲れを覚えながら、先輩司祭たちからできるだけ目をそらしながら後輩たちにチャレンジした。中には引退した司祭もいて顔なじみの現役の先輩たちからは侵し難いオーラが出ていて眩しかったからだ。髪黒黒の若者の頷きは励みになった。叙階式の時に一歩踏み出したアドゥスム(ここにおります)はマリアさまのなれかしに倣って、繰り返し口にしながら首尾一貫して歩を進めていくべきもの。

山王神社の被爆クスノキ3つの関わりを生きる

ところで、イエスが回復された3つの調和、つまり、神との関わり、人との関わり、そして自然との関わりにおけるこの3つの調和は司祭たちの課題でもある。司祭は神との関わり(祈り・ミサなど)、人(仲間の司祭・信者・身内)との関わりはそれなりに大事にしていると思うが、自然との関わりはどうか。これは興味があるナシの問題ではない。私たちの消費習慣はどうなっているか。環境への配慮はどうか。無造作なティシュの使い方、電気の無駄使いはないか、教皇の指摘を引用しながらチャレンジしたのだが。

神の本気さに生きる

二十六星人が歩いた道。下船した時津港の方角を振り返ったかもしれない。もうすぐ西坂。教皇がこの3つの関わりに加えて、自分との関わりという新たな課題を提示されたことも取り上げた。司祭たちには最も苦手な自分との出会い。ボクにとっては、1番大事なテーマなのだが。先輩たちには遅すぎる課題に違いないが、多くの若者には是非取り組んで欲しいので、明日に続く。夕食後、1人の後輩から「神様の本気さについてもっと聞きたい」との質問あり。ボクにはあまりにも唐突な感じがしたので質問の真意を正すことなく別れたが、神様のイメージの問題なのかと思った。つまり全能の神という喜怒哀楽とは無縁のいわば無色透明な神のイメージではないのか。で明日の最終講話の前にそのことに触れなければ。「神の傷みの神学」(北森嘉藏)と放蕩息子のたとえ話を話すことに。そして、健康講座?

 

昼休みのウォーキングは大汗をかいた。それにしても、それにしても、修学旅行生の多いこと。「こんにちわー!」出会い頭に元気な挨拶をする子供たちもいて、聞くと、「福岡デス!」浦上天主堂に行くと言っていた。被爆マリアに会いに行くのだと思うが、いつか教会の門を他叩くときがくるといいのだが。

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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。

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