徳之島、初めての葬儀ミッションは子供の頃の思い出深い家族との再会

1950年代にタイムスリップ

奥の二階の建物は元修道院

奥の二階の建物は元修道院

子供の頃、3年生の頃だったと思う。伝道士養成学校が始まって、沖縄や奄美全土から招かれた10数名の若者たちが学んでいた。今で言う教会学校では彼らが先生だった。彼らはまた子供達の遊び相手でもあった。実習を兼ねていたのだと思う。2年ほどで閉鎖されたように思うが、その中から2人の司祭が誕生したが、これは大きな副産物。

一息つく間もなく

冷たい水が運ばれ一息ついた庭先のテーブル

冷たい水が運ばれ一息ついた庭先のテーブル

そんな、昔の思い出にいざなうような出来事が起こった。出来事というか、「助祭の奥さん帰天」の訃報が届いたのは、司教会議から帰ったその日、空港バスの中。一昨日の木曜日のことだ。葬儀は土曜日午前10時だというのでカレンダーを開いた。MEアジア会議準備会が入ってはいるがこれはなんとかなる。早速出かけることに。前泊することになるので、大事をとって、最終便1つ手前の便にした。幸運にも一席だけ空いていた。

懐かしの聖家族

助祭の家族は当時、伝道士として故郷の村に赴任しておられた。四年生だったか、長男を筆頭に4人の子供連れで。Sちゃんという可愛い女の子がいた。数十年ぶりに会う彼女が遺影の母上とそっくりなのに驚いた。弟はやはりSくんで、お姉ちゃんと一緒によく我が家に遊びに来ていた。7人の兄弟姉妹が全員家にいた時なので大勢の中にいるのが楽しかったのだと思う。とくにSくんは居心地が良かったのか、帰りたくないと言ってごねることもあった。「郡山Sくんになったらいい」と父がからかうと「なる!」と言ってみんなを喜ばせたものだ。個人的にはそんな懐かしい思い出に満ちた家族でもあるところから子供達にも会いたかったのだった。

末広がりの輝き

合理的な会場設営

合理的な会場設営

少しあわただしかったが、お祈りの前に少しだけみんなと話すことができた。孫やひ孫が勢ぞろいしている姿は壮観だった。こういう若い人たちを見ると限りなく希望がわく。やはり年を取ったんだとこういう時に思う。それはそうと、葬儀場での通夜には500名ほどの人が集まり驚いた。お祈りの後はすぐに会食ができるように、テーブルには食べ物や飲み物が用意されていた。「祈りの雰囲気がない」と司祭は嘆いていたが、説教には耳を傾けていたし、ボクとしては違和感はなかった。むしろ、「これもありか」。明けての今日の「みことばの祭儀による葬儀」も初めてだったが、洗練された式の進行で、これはこれでよかった。お御堂での葬儀ミサにしくものではないとしても、汗もかかない涼しい葬儀場での葬儀は快適だった。

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☆神に仕える身でありながら、カミガミ(紙々)の要らない世界を標榜する人間の一人として、電子メディアに自分の思いを綴ることは大きな喜びです☆本を書かない代わりにここでいろんなことを書いてみたい。

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