最悪を想定しない
昨日の話の続きみたいになるが、日本の政治家には哲学がないのではなく、日本人というのは「最悪を想定しない国民性」なんだと説かれて腑に落ちた。コロナ騒動で見せる政策の行き当たりばったり感の理由が明確になったからだ。国の大事を任すのにふさわしい器は望めないことがはっきりした。「最悪の事態にどう対応するか?」という問いを前にすると、日本人は思考能力が一気に低下するという指摘には思わず笑ってしまった。ボクがまさにそうだからだ。(文化欄 新型コロナと文明)。
ウンと具体的に言うと
昨年の運動会の打ち合わせの時のことだ。リレーのバトンはどうドーナツ型。エーッ、それは違う。ちゃんとしたバトンにすべき。どこかの幼稚園で事故があったんです。ちゃんと指導すれば大丈夫だよ!大丈夫、と言われても、もしものことがあったらどうしますか?そうか、みんなが心配するんだったらきっとそうなるから、じゃ、止めよう。あっさり譲歩したことが思い出されたからだ。もっとも、その後安全策を講じて長いバトンで実施したのだが。
仮定は呪い
本題に戻ろう。「祝言を発すれば吉事が起こり、不吉な言葉を発すれば凶事が起こると信じられている」と論者は説く。言霊(ことだま)信仰だ。ともあれ、みんなが盛り上がっているときに、「チョット良いですか」と誰かが手を上げて仮定の話を持ち出すと座がしらけるということは珍しくない。「折角みんながその気になっていたのに・・・」と非難がましい空気が支配して一同シュンとなってしまうのだ。何度も経験しているので思わず笑ってしまったのだ。だから、と論者は言う。「そんな国で危機管理が出来るはずがない。」
言霊の力
論者の言葉は更に続く。「五輪だ、万博だ、カジノだ、リニアだ、クールジャパンだとものに憑かれたようにわめき散らしていたのは、あれは主観的には祝言をなしていたのである。・・・未来を祝福して吉事が到来するように必死に祈っていたのである。」なるほど、ここで祈りが出たか。そしてこう結んだ。「言霊の力で現実を変成しようとしていたのである。」なるほど、こうも明確に説かれると納得してしまう。肩書きは思想家となっていたが、なかなかホネのある人が日本にもいたことを頼もしく思うことだった。
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