アーネスト神父様は哲学者だった?
小ぶりの顎髭で面長のすらっとしたアーネスト神父様は子どもたちにも人気があった。瀬留の司祭館の、今では事務室になっている一階奥の食堂隣の部屋で神父様を囲んで子どもたちが集まっていた。二つ年上のT姉さんは神父様の膝に顔を乗せて寝てしまっていた。「信者でもないのにイイナア」と子供心に眺めていたのが思い出された。
そのアーネスト神父様が瀬留を引き上げたのが1955年で、本国での休暇の後に沖縄に行かれたと知った。当時、神父様たちの姿が次々と見えなくなり、代わりにコンベンツアールの神父様たちがアメリカからやってきた。どうしてそうなったのかは知る由もなかった。
それが、琉球列島ミッション第4章の最終頁(129頁)で判明した。しかも、琉球大学で哲学の講義を始められたと知って驚いた。当時、瀬留には伝道師(カテキスタ)養成学校があって沖縄から沢山の若者たちが来ていて、神父様たちから講義を受けていた。哲学の授業があったか知らないが、何となく納得できた。
スギ姉さんのことも!
なにやら物語めくが、故郷の村の一番奥にあった一軒家にはサイツォおばさんと娘のスギ姉さんが住んでいた。スギ姉さんは確か縁なしめがねをかけていて知的できれいな人だった。鶏を抱えて村中の家々を巡っては喧嘩を売っていた。サイツォおばさんの鶏にもけしかけてしかられたことがある。
しかし、スギ姉さんは優しい人で、あるときおやつをもらったこともあった。名瀬から帰ったばかりで当時は口にしたことのなかった四角いパンだった。食パンの一切れだったと思う。そのスギ姉さんがシスターになるため東京の修道院に行ったこと、2回目の誓願更新を終えた直後胃がんのため31才で亡くなった事を知った。
「えっ!」まるで、つい最近まで元気だった人の訃報に接したような驚きだった。そういえば、「修道院に行って亡くなった」という話は聞いたようにも思う。ご本人は創立間もない「聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会」の会員として東京で修練を受け、沖縄で働くのが夢だったという。おぼろな過去が鮮明な画像に変わった。
更に、彼女が子どもたちに教える資質に優れていたことや「神父様、豚小屋でもいいから帰らせて下さい」と懇願したこと、「まだです」との返事には「それならどんなに遠くても泳いでいくぞ~」とおどけたことなどが記されている。みんなから愛され惜しまれたことが分った。子どもの頃見たままの明るいスギ姉さんが蘇った。
鶏の喧嘩を売った家も今では荒れ地となり面影をたどれる物は皆無。故郷を離れて帰ることのなかった召命の道。主に捧げ尽くした未完の道は主と同じ31才。修道名はマリア・アグネス。
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