前言取り消しというほど大げさなことではないが一夜明けてふと思った

それでも!Blog

「ブログかフェイスブックか」ではなく

やはり、「ブログもフェイスブックも」と住み分けがいいかもしれない。というのも、今日書きたくなったのは、司祭としての思い。フェイスブックでは拡散しすぎて(その心配はないとしても)目にした人が教会とは縁のない人で「なんだこりゃ?」と削除されても悲しい。

それに引き換え、ボクのブログは教会内の訪問者(必ずしもそうではないと思うが)という気安さがる。「そうだな」と一緒に考えてくれそうな期待がもてる、と言ったほうがいい。もちろん反論もあるとは思うが。いつかのように炎上して、余計な風が吹くことになるかもしれないのだが。

ともあれ、今日書きたいと思ったのは日本語のミサの祈りとベトナムのそれとの違い。個人的には、ベトナム語に軍配を上げたいが、第二奉献文のメメントの後の箇所。「また復活の希望をもって眠りについた私たちの兄弟姉妹とあなたの慈しみのうち亡くなったすべての人を心に留め、あなたの光の中に受け入れてください。」

曾木の滝

曾木の滝

辞書を引き引き四苦八苦しながら読んだら次のことに気が付いた。「亡くなったすべての人」に続きがあることに。すなわち「先祖、つまり祖父母、父母、親戚、友人」と続いて「を心に留め」となるワケ。「すべての人」でいいのだが、鹿児島弁でいえば「コイゴイ」と祈るわけで、規範版がどうであろうと、身まかった人々への深い愛に満ちた心情を言葉にしたいというベトナムの人々の気持ちが伝わってくるではないか。

簡潔で美しいのが日本語の特徴と言ってしまえばそうだが、典礼はスマートでないといけないということよりも、その国や地域の泥臭さがにじみ出た祈りや所作があってもいいとは思う。踊りながらの奉納が当たり前な国もあるというから、日本独自の祈りの言葉や所作がもっと研究されてもいいのではと思うのだが。

ともあれ、三つの賛歌も旧来のままで通している自分としては、あんまり大きなことは言えないのだが、ご容赦あれ。

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