神のしもべのしもべ

グレゴリオ一世教皇

「生活が口についていかないのです。」つまり、自分が説くことと実際の生活が違うということ。今日記念するグレゴリオ1世教皇の言葉。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとした」というエゼキエルのことば(3.17)を巡っての講話の一節。見張りとして立てられた者は高徳という高い所に立っていなければならないのに、という述懐。

6世紀の人で、ローマ市長。その後、修道生活。そして、教皇に。かつては祈りに専念できていたのに、さまざまなことに配慮しなければならなくなった教皇職でアレヤコレヤと心が定まらない現状を述べている。

世間の人々との付き合いにも苦労は絶えない。聖人である教皇の悩みはそれだけではない。世間の人々との付き合いには自分の人間的弱さがモロ出てしまうことが多い。世間の人々と付き合うときは、相手を窮屈にさせないためにできるだけ物分りのいい人として振る舞うようにしているが、世間話を聞くのは、正直、我慢がいる。けれども、やがて自分も同じ話題にはまってしまって自分から進んで話しに乗っていくことになる。そして、「そこに落ちるのを嫌っていたところに、横になったまま伏していることを楽しむのです。」以上、毎日の読書第7巻9月3日の第二朗読より。

聖人も人間、教皇も人間。当たり前のことだが、自分の心の内をこんなにも露わにできることも聖人の証なのかもしれない。人々からの評価など全く気にしないで神様に一直線。「おそらく、過ちを自分で認めているというそのこと自体が、いつくしみ深い審判者のゆるしを得させるのでしょう」(同上)。

罪人であることや自分の人間的弱さを吐露しながら、聞く者に安心感と希望さえ与えるのはなぜか。我が身の不甲斐なさにためいきをつくことは多いが、それでも、神様に一直線でいたい。自分のことを”神のしもべのしもべ”と呼んだ最初の教皇。

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