昨日、帰りの機中でiPad内臓のカラマゾフの兄弟上巻を読了。末っ子のアリョーシャが修道院を出ることになるのか、父親との約束をほごにしてモスクワに向かったイワン・フョードロヴィッチがどうなったのか気になりながら下巻が手に入らなかったので、「出家とその弟子」(倉田百三1917年)を読むことに。読み始めて気がついたが、主人公の唯円(ゆいえん)は若い修行僧でアリョーシャも修道服をまとってはいるが修行中。どちらも好きな人がいたりする。
そんな共通点はともかくとして、これが、親鸞の弟子唯円の作と言われる歎異抄の教えを戯曲化しものだと知った。これもいいとして、一番の発見は、これが歎異抄の教えだとすれば、なんと聖書の教えに似ていることか。
「私はお前を裁く気はない。…お前の罪のために、とりなしの祈りを仏様に捧げている」(317頁)という親鸞が唯円を諭す言葉。「仏様のみゆるしなくば、一ひらの花びらも地に落ちることはないのだ」(319頁)というやはり唯円への言葉。そのほか「つくられたものはつくり主の計画の中に自分の運命を見出さねばなぬのだ」(321頁)。数年前、諸宗教対話研修会で訪問したお寺のお坊さんが、「何てすって!私たちは神様につくられた?」と大きな目をさらに大きくして驚かれたのが思い出された。
また、「恋人を隣人として愛せねばならない」(327頁)や「祈りなさい」、「赦しなさい」など、なじみの用語が次々出てくる。さらに、唯円が遊女かえでに熱を上げてお勤めも怠るようになって他の弟子たちへの示しがつかなくなったというので、説得に来た先輩僧三人が正論を吐くのは、状況は違うとしてもヨブを訓に来た3人の友人たちが説く正論と重なる。そうそう、「わたしたちは悪しき人間」という自覚は教会用語でいえば罪びと。数え上げたらきりがない。
いつくしみの特別聖年に歎異抄を読むのもいいかも。
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