トラブルを学びに変える校長先生の生き方は「死と復活」の信仰そのもの?

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匿名のキリスト者

葉桜になっても散らない園庭の避寒桜の白

葉桜になっても散らない園庭の避寒桜の白

4月21日の復活祭までにはまだ間があるが、3月6日が灰の水曜日でもうすぐ四旬節ということもあるので、少し早いが、復活の信仰について考えてみたい。というのも、学校の「当たり前」をやめた校長先生の視点はまるで神学校時代の霊的読書を思わせるようなメッセージにあふれているからだ。しかも、先生のモットーは「トラブルを学びに変える」というきわめて前向きなもので苦難と復活をほうふつとさせるからだ。偉そうに聞こえるかもしれないが、「信者は本来逆境に強い」というボクの信条に通じる。打たれ強いと言えば修羅場の人生を想起するかもしれないが、イエス様がその典型。鞭打たれただけでなく実際に死刑という究極の打たれ方をされたのでさすがに弟子たちも失望したほどだった。しかし、3日後の復活という逆転大ホームランを放たれたことが信者の誇りであり、憧れでもある。いや、そのことを身をもって証するのが信者。そういう意味では、校長先生は、かつて盛んに言われた「匿名のキリスト者」と言える。先生の本(学校の「当たり前」をやめる。)を読むと日々の生活の中で復活の信仰を生きるのが具体的にどういうことかがよく分かるので一読を進めたい。信者でもない人(校長先生はおそらく信者ではない)から信仰の根幹を教えられることもある。なぜなら、神様は「ご自分に似せて人を造られた」(創1・26参照)からだ。何週間たっても散ることのない奄美の緋寒桜にならいたい。

最上位の目的

見向きもされないのに毎年沢山の実を付ける

見向きもされないのに毎年沢山の実を付ける

先生の教育論は続く。「生徒に何か問題が起きたときは、このトラブルを子ども自身の自律的な学びにどう転換するのか、それが最上位の目的であり、…」(146頁)。問題を自律的な学びの機会と捉えるところにタダの校長先生と違うところかと。信仰生活の場合も同じことが言えるのではないか。つまり、日常生活のリズムを狂わせるようなさまざまな問題こそが生きた要理教育の現場であって、復活の信仰を自律的に学ぶ機会ということになる。つまり、頭の訓練に終わりがちな公教要理を血の通う生きた信仰生活に進化させる絶好のチャンスととらえるなら信者は、世の人々が不審に思うほど明るく生きることができるに違いない。それこそが、イエス様が教会をお建てになった目的であることを忘れてはならない。これこそが、信者にとっての「最上位の目的」。ヤコブも言っているように「行いが伴わないなら信仰はそれだけでは死んだものです」(2,17)。肥料をやらなくても、厄介者扱いされても沢山の実をつけるナツダイのしたたかさにならいたい。

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