聖書から
一つ上に移動ああ、神の人!
洗礼者ヨハネ。イエスの先駆者として「荒野に叫ぶもの」として、いわば、イエスの梅雨払い役をした最後の預言者。若い頃、「フォーランナーズ」(先駆者達)とうバイクのツーリングクラブをつくり、そろいのTシャツを着て走り回っていた。しかし、本物の先駆者はそんなイージーな人生ではなかった。
「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、頂きとうございます。」時の王ヘロデの気まぐれ発言がとんでもないことに。さすがのヘロデも予期しない娘の答えに仰天。しかし、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。・・この国の半分でもやろう。」豪語した手前ヨッシャ!
ヨハネの斬首のあっけなさ。預言者の最後の格好悪さ。あまりにも滑稽なほどの神の人の末路。それもこれもひとえに、ヘロデという権力者の気まぐれな一言がもたらしたこと。
一権力者の気まぐれにも無力な神。なすがままの神。悪を見て見ぬふりする神?神がいるのに、何故正しい人が死ななければならないのか?そんな怒りの抗議にも沈黙する神。
十字架を知らないヨハネの悔しさは如何ばかりだったことか。そんな不条理が後を絶たない現実。最愛の幼子三人を一度に失った若い両親の痛みが辛い。それでも、十字架の不条理に出会ってくれたらと祈る。
今日は、そんな不条理を甘受した洗礼者ヨハネ斬首の日。
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一年のすべてに感謝!
ブログを読んでくださった方、コメントされた方一年間ありがとうございました。世の中では、もうすっかり過ぎたことになっていますが、教会は、当方の博士たちが幼子を拝みに来たことを記念する1月8日の主の公現の日曜日まで、クリスマスの余韻を味わう降誕節です。で、新しい年も、皆さん一人一人の上に、幼子イエス様からの祝福がたくさんあるよう祈ります。新しい年もどうぞよろしく。
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司祭大会最終日
「はじめにことばがあった」というヨハネの書き出しが意味することとは?こんな命題を解き明かすためのキーワードが「飢え渇き」。
ヤコブの井戸で出会われたサマリアの女こそが人間の深い飢え渇きの生きた姿。まるで推理小説の世界を地で行くような、と言えば語弊があるかもしれないが、一つ一つ丁寧に謎解きをしていくような組み立ては、聞くものをして飽きさせない。理屈の羅列ではなく、覆われてしまっている人間の深みに分け入るための道筋をつけてくれる愛の執刀医と言ったほうがいい。人ごととしてではなく、自分のありのままの姿を優しく開示してもらっているようだった。
そんな私のというか、人間の根源的飢え渇きは四つ。話された順に紹介したい。まず「柔らかで、棘のない、暖かなものに包まれたい」という飢え渇き。温泉にどっぷりつかったときのホッとした感じを連想したが、胎内の赤ちゃんの状態が紹介された。この母子の関係こそ人間の究極の願望が満たされる「私の居場所」。ぞっとする堕胎現場の話も紹介されたが胎児でも緊張で身を固くするのだという。生まれた後の環境はどうか。子供が緊張する環境だと根源的飢え渇きは満たされることはない。
二番目は「かけがえのない存在として認められたい」という飢え渇き。ボクに馴染んだ言い方をすれば「ありのままの自分で愛されたい」ということか。できるできないで図られるのでなく丸ごと認められたいという願望は根源的で深いものだ。
たとえ、この二つの深い飢え渇きが満たされなかったとしても、「人に触れたい。つまり心に触れたい」という渇きが満たされれば生きる力が湧く。これも具体例が出されたが敢て割愛するとして、心がつながれば人間らしい心が戻り新しい歩みが始まるのは具体例を挙げなくても大なり小なり誰もが体験することだ。
イエス様は人間をこんな風に見ておられたのではないか。そこで出てくるのが信じるということ。それは「絶対確かだと思う人に裸になって飛び込んでいく行為」であって、「相手が豊かであればあるほど自分も豊かになる。」その典型的姿が母親と赤ちゃんの関係。
この対極にあるのがイエス様がヤコブの井戸で出会ったサマリアの女。彼女は、6度目となる男性遍歴。心から信じてありのままで飛び込んでいける人との出会いがなかった。それでも探し続けている。イエス様はそれを咎めるのでなく、彼女の満たされない出会いへの渇き、つまり真実の心に触れたいという飢え渇きを、何とか満たしてあげたいと思われてことばをかけられた。ここに冒頭の命題に対する解が見えてくる。すなわち、ヨハネにとって言葉は、学問的研究の対象ではなく、真実の「出会いを育て完成していく手段」。
聖書でことばは音になる前の思いをいうのだと学んだことを思い出した。イエス様は、人間を何とか救いたいという神様の思いを見える形で実現される方として、サマリアの女の前に立たれた。だから「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」となる。なるほど!
お昼の後希望者6名で拝山(標高125m)散策。市内が一望できる。早速、iPhonで全景をYouTubeにアップ。日本復帰の記念碑もあった。
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余韻に浸りながら
司祭の役割とは?信徒の時代といわれて久しい。当初は、司祭が次々と仕事を奪われていくという被害者意識的発言が多かったように思うが、今では、信徒の時代はすっかり定着したかに見える。
もっとも、教会において聖職者の存在感は依然として大きく、小教区の雰囲気は主任司祭次第という現実は変わらない。そういえば、信徒の徒にはあまりいい意味がない。徒労、博徒。信仰が徒労に終わるのでは話にならないが、まして、信仰者のイメージが博徒を連想させるなどもってのほか。また信徒を意味するラテン語のライクスはドイツ語からきているそうだが「素人」という意味だという。司祭はプロ、信徒は素人、ということになりふさわしい用語とはいえない。
ともあれ、司祭が司祭として心に留めておきたいことは、イエス様が12人を選ばれたとき「神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6.12-12)ことだ。徹夜の祈りをされたというのだから12人をお選びになるということが、イエス様にとってどれほど重大な出来事だったかが分る。
旧約聖書には預言者という役職はあるが、使徒という役職は出てこない。ここにイエス様の新しさがある。マルコの選びの箇所では「派遣して宣教させ」(マルコ3.14)とあるので、遣わす者と遣わされる者という構図で教会は存在することになる。もっと言えば、「人々の痛ましい姿を見ていたたまれなくなった神が何とかしなければといって遣わされたキリスト」が12人を遣わされた。遣わす者の意図に従うことで遣わされた者の存在理由はある。遣わす者の意図にそぐわないなら遣わされた者の存在理由はないことになる。
だから「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」(マタイ16.26)ということになる。遣わすお方としてのキリストの意図に従うことこそわが命、なのだから。そんな重大な役割を司祭に果たしてもらうためにキリストは今も終わることのない祈りを捧げておられるのだ、と思う。我らが主もノベナの祈りの愛好者だと嬉しい。二番煎じとはいえ、講師の意図からずいぶんかけ離れたものになってしまった。講師の人間的優しさから紡ぎだされたぬくもりに満ちたメッセージの数々を、自分なりの「福音伝承」となることを願いながら暖め続けて生きたい。
5日ぶりの鹿児島は雪。冷蔵庫だが室内は16℃。
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聖書で遊ぶ
地図、イラストを多数掲載。今日思いがけない贈呈を受けたフランシスコ会訳の中型聖書の帯封の文句の一つ。大型はすでに購入済みで読書課用に使っているが、
帯封に目が止まったのは、大型と違って、ソフトカバーで手触りも柔らかく天地創造を思わせるデザインが斬新で、しかも帯封には2個の実をつけたオリーブの小枝のワンポイント。パラパラめくると、なるほど地図やイラストがすぐに目に飛び込んだ。1時間ほど、イラストや地図を見て遊んだ。
本文に当たることなく、本末転倒のそしりを受けそうだが、イラストが最も多かったのが出エジプト記、は意外だった。創世記の最初のイラストは見覚えのある聖書の宇宙観。地下の陰府(よみ)の国、そして地上、この地上の下には縦に坑道が走っていて死んだらここを通って陰府(よみ)の国に下ると考えられていたという。天上の神の国はお城がそびえ輝いている。ちなみに、創世記には地図が五つ。その最初のものは当然ウルから始まるアブラハムの放浪の軌跡。
地図といえば、パウロの三回にわたる伝道旅行の地図はおなじみだとしても、地中海世界を駆け巡ったそのあくなき情熱がザビエル様と重なった。最後の地図が、ローマで終わっているのは当たり前だが、首をはねられたとの伝説がある、いつか訪ねたトレフォンタの教会が思い出された。トレフォンタは三つの泉という意味で、パウロの首がゴロンゴロンゴロンと三回転がったところに泉が湧いたという。
お祈りを済まして出てきたら、入った時には気がつかなかったが、正面に酒屋さんがオープンしていて驚いた。ワインやグラッパ(食後酒)がずらり。何とか修道会の経営と聞いて二度びっくり。それでも、確か、グラッパを買った記憶がある。
遊びついでに、いつもながらの脱線ばかりだが、今度は本文に当たって黙想しようッと。
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交わりのダイナミズム
黙想会もいよいよ大詰め。マルコ福音書から聖なる三日間、過ぎ越しの神秘。いい話をたくさん聞いているという感じはするのだが、昨日と同じで自分の中ではまとまりがつかないでいた。
しかし、講話の終わりに紹介されたイエスのゲッセマネの祈りで自分なりの糸口がつかめた。苦しみのあまり思わず叫ぶように祈られたイエス。「この杯を私から取りのけてください!」(マルコ14,36)。杯が意味したものは何だったのか。
イエスが生涯をかけて伝えたのは慈悲の神、赦しの神、癒しの神、そして和解の神。ゲッセマネのイエスにとって一番の問題は「今のこの瞬間にも、この神を行きぬくことができるのか。」ボクなら、「できないかもしれない、できなかったらどうしよう。ああ…」と頭を抱えるところだが。「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とイエスに言わしめたものは何だったのか。そんな極限状態にあっても、その苦しみを甘受するだけの御父への信頼と御父への愛の証しとしての人類への愛の比類なさだった、と。受難そのものよりこの点を黙想すべし、だと。ウーム、そうだったか!
だから、話を杯に戻すと、もし飲まなかったとしたら、人々に説いた神はウソだったことにならないか。激しい二律背反の渦に巻き込まれながら自分の中でしっかりと御父を選び取ることができたところに、普遍的な救いの道が敷かれた。苦し紛れにエーイと賽を振るようなボクの祈りと本質的に違うところだ。そうはいっても、十字架上でのあの断末魔の叫びは何だったのか。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(15,34)。そして、「イエスは大声を出して息を引き取られた」(15,37)。「それでもボクはあなたを信じますっ!」だったに違いない。
午後は使徒言行録から交わりのダイナミズムが中心。復活の主と出会った弟子たちの生活の特徴はすべてを共有した「相互の交わり」(使徒言行録2:42/4:32-34)。洗礼はキリストの死と復活の命にあづかること。私の中にキリストが生きはじめた。だから、キリストの生き方に反することをしないのがキリスト者。そこでまとめ三点。
①そんな交わりの流れを汲む教会共同体は本来交わりの共同体。分かち合いがカギ。教会の献金は貧しい人に使われているか。②異教徒が加わった(8:4以下)。異質の要素を排除しない共同体。現実は?③復活の主は使命を与えた。キリスト者は宇宙全体の救いの完成に協力者として呼ばれている認識を是非。信者の宇宙的使命!
最後はやっぱり突きつけられたね。
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司祭大会(3)
典礼の刷新において最も大きな変化の一つは両形態の聖体拝領。実際にするかどうかは司式司祭に任されている。もちろん、時、場所、状況に応じて。
ミサには旧約の民の歴史、つまり神体験が反映されている。昨日も触れたことだが、大切なことなので補足したい。
シナイ山の麓での神と民の契約のことを思い起こしていただきたい。モーセは半分の血を祭壇に、後の半分を民、12部族に注いだ。そして言った。「これは契約の血である」と。
イエスは、この出来事を思い出して、ぶどう酒の満ちた杯を取り、「あなた方と多くの人のために流される新しい永遠の契約の血」と言われた。聖変化だ。もっとも、両形態の拝領が通常なされるわけではないのだが、実は、「キリストの御からだ」を頂くとき、あのシナイ山の麓で契約の書を聞いた民の答え、「私たちは主が語られたことをすべて守り、行います」(出エ24.7)を思い起こす必要がある。
というのも、民の答えこそ、私たちの「アーメン」が意味するところであり、新しい契約更新のことばだからだ。御血の拝領がなされるなら、血を振りかけられた民とより具体的に結ばれるので意義深い。
ともあれ、新しい契約を更新することで、私たちの生活はどのように変わるのか。民の変化は神の民となる変化だった。神中心の生活の始まり。ご自分を与え続ける神の民となった私たちの聖変化とは。パウロにならって言うなら「愛の人になること。」今日はここまで。
春のような陽気に誘われて久しぶりのスロジー。スロージョギングのこと。スローな爺さんという自虐的意味もある新語。
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司祭大会(4)
日ごとに繰り返される私たちの聖変化。これこそ、ミサを祝った信者の一大事。些細なことを通して働かれる神。小さなしるしが大きな体験に導く。
マリア様然り。赤ちゃんとして生まれたイエス様然り。弟子たち然り。薄っぺらで小さなご聖体。数え上げるときりがない。そして、この小さな私も、洗礼によって神の子とされ、聖体によって救いの出来事に預からせていただいている。確かに。
小ささに心奪われて偉大な神の働きを見ようとしない。それが問題。だから、変われない。“神に結ばれた私たちは愛の人に変えられる“とパウロは力強く訴える。
ガラテア5,22「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」新しく変えられたしるしはこれ。だから、「25わたしたちは、霊の導きに従ってまた前進しましょう」とパウロは勧める。
では、愛とは?神様がそうであったように、私たちも神に習って相手のために生きようとすること。教会の基礎はこれ。教会は神様の愛を表すしるし。だから秘蹟。だから神の前で愛を誓う結婚式は教会で挙げるのが相応しい。で、自分の喜びを第一にする「好き」とは本質的に違う。
「相手のために」という愛の本質は、教会の労働観の基礎概念でもある。つまり、働くのは本来、他の人々の喜びに資するため。だから、例えば、バスの運転手さんには「私たちのためにありがとう。」で、司祭は司祭職を相手のために果たしているか?耳の痛い話だ。
では、教会は何のためにあるのか。教会に引っ張り込むのではなく、出て行くように。世の中と同化するためではなく、みんなを神の元に連れて行くため。モーセは我が家を出て囚われの身となっている同胞のもとに出かけ、その結果、解放された民は神との過越の契約を結ぶことになった。
新約の民であるキリスト者は、この過越の契約を更新する者。それが私たちキリスト者の神秘体験。で、教会は、すべての人々をこの過ぎ越しの契約へと招く使命を受けている。これが教会の本質。
明日、韓国の二人か神学校へ。今夜はみんなの好きな回転寿司で壮行会。前回は70皿、今回は100皿を超すかも。ア~。*難しい内容が続いているので気分転換にどうぞ。 一緒に踊りませんか?
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Re:一年のすべてに感謝!