何とも言えないこの気ままさ
実は、このところ、朝食もそこそこにコーヒー片手に二階に上がるのが楽しい。園庭から届く子どもたちの歓声や先生たちの声も「元気でいい」ともはや他人事なのだ。しかし、昼の祈りにお御堂に降りた時だ。営業マンらしき人が二人門を入るところだった。「まずい!」と思わず身を固くして失笑した。
すっかり自由になっているつもりだったが…。「やっぱりボクでなかった。」当然のことを確認して改めて100%の気ままさが身についていないことが少し悔しかった。ともああれ、数分後、「ボクは気まま!」失いかけたものを手元に引き戻したような安ど感を胸に二階に戻って気ままな読書を再開したのだった。
ともあれ、今日は、この数日で読了した最新の教皇講話集をめぐって久しぶりに書きたくなった。「信仰は思い出のアルバムではない」(119頁)「今ある現実の『ガリラヤ』に出向く」(120頁)「神の夢が実現する」(128頁)「信仰は驚きがなければ疲弊した単なる連祷」(202頁)などなど。教皇独特の印象深い表現にはきりがない。
そんな中で、「我が意を得たり」と思わず膝を叩いたのは「主は、聖書の卓越した解説者をそれほど求めてはおられません」(301頁)という言葉だ。「それほど」と気を遣うような言い方が彼らしい。ともあれ、神の言葉は反芻することで自分の中でこだまし、発芽して、やがて活き活きと働くようになる、と続く。
だから「私たち一人ひとりは、生きた、それぞれ独自の『翻訳』となれるのです」と。ここからはボクの独断になるが、「独自の翻訳」とは要するにみ言葉を自分の言葉にしてそのように生きようとすることで、その見本があの「ガリラヤのイエシュー」(山浦玄嗣著)。ケセン語は難しいが全国各地の方言も半端じゃない。
鹿児島弁も研究されたようで、「何とか地元の言葉で」という熱い思いには感嘆あるのみだが、いずれにしろ、「独自の翻訳」とは「自分の信仰を自分の言葉で語る」(座右の銘としてきた神学校恩師の言葉)ことだと理解した。シノドスで教会はさらに改革を進めようとしているが、こんなレベルの新しい聖書が出てもいい。
あの山浦先生を中心に日本語にこだわった翻訳同好会みたいなものが誕生したら教会はもっと活気づくと思う。今の翻訳ではイエス様の人柄や放蕩息子を待つあの父親の優しさよりも厳しさが強調されがちなので言い訳がましい解釈ばかりになるように思う。それに風穴を開けたのが「ガリラヤのイエシュー」で、まさに独自の翻訳。
司祭中心の教会から信徒中心の教会へ。教皇が本気なら信徒も本気になって「それぞれのイエシュー」を出してみたらと思うのだが。気ままに書いたら、とりとめもなく長くなってしまった。
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